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「道」
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先日、心の師であるアントニオ猪木が亡くなりました。

国指定の難病と闘っていたことは知っており、年齢も年齢だけにいつかこの日が来るであろうことは覚悟していましたが、やはり寂しい思いで一杯です。

若い世代の人には馴染みが薄いかもしれませんが、私ら昭和世代にとって大きな影響を与えてくれた一人と言えるでしょう。

思い出すに、1976年6月26日は世界が注目した異種格闘技でボクシング世界ヘビー級チャンピオンのモハメドアリとの世紀の一戦があった日です。

確かその日は土曜日で午後1時からテレビ中継の予定でした。

土曜日は今と違って午前中は学校の授業がありましたから、高校2年生の私は4時間目が終わるや否や一目散に自転車をこいで家に戻りました。

試合の展開は全く予想もつかず、1ラウンド10秒で決着がつくかもしれないと言われていた試合です。

授業が終わったのが12時半くらいですから、世紀の瞬間をどうしても見たくて、肺が破れ、足がちぎれるほど必死にペダルをこいだことを懐かしく思い出します。

アントニオ猪木はリングを引退した後の政治家としての活動の印象が強い人ですが、幼少期やどのようにして当時スーパーヒーローだった力道山に弟子入り出来たのかにずっと興味がありました。

10年ほど前、たまたま本屋で「アントニオ猪木自伝」という本を見つけたので読みましたが、私が知りたかったことが書いてありましたので紹介します。

猪木少年は小さい時から人と争うことが嫌いで、勉強も苦手な大人しいボーっとした性格だったと自分で書いています。

本名は猪木寛至と言いますが、カンジからあだ名は「ドンカン」だったそうです。

体格が良い割に集団でやるスポーツが苦手だった猪木に当時高校生だった兄の学校の担任の先生が勧めてくれたのが砲丸投げだったそうです。

「こんな鉄の玉くらい遠くに投げ飛ばせる」と思ったそうですが、いざ投げてみると全くイメージと違って投げられなかったことにショックを覚えたのがきっかけでどんどんハマって行きました。

暗くなるまで校庭の隅で一人で黙々気が狂ったように砲丸を投げ続けるうちに少しづつ遠くに投げるコツを掴んで行きました。

中学生の時に祖父の提案で一家でブラジルに移住し農業をすることになりました。

ブラジルに渡る船の中で祖父が突然亡くなり、そのままブラジルに渡り農業をしたものの、実際は聞いていた理想的な話とは程遠い過酷な生活だったそうです。

苦しい生活の中で猪木少年にとって砲丸だけが友だちで、来る日も来る日も大豆畑の隅で暗くなるまで砲丸を投げ続けました。

そんなある時、ブラジルで陸上競技大会が開催されるということを知ります。

腕に多少の自信があった猪木は砲丸投げに出場し、日ごろの鍛錬が功を奏し優勝してしまいます。

さあ、ここからが人生の面白いところです。

全くの偶然ですが、その時かの力道山がプロレス興行のためブラジルに来ており、偶然その陸上競技大会で日本人が砲丸投げで優勝したと言うニュースを目にしたそうです。

力道山は猪木という少年を連れてくるように言い、突然猪木少年が呼び出されます。

何のために自分が呼び出されたのかも分からないまま訪ねて行きます。

初めて会った力道山からいきなり「服を脱げ」と言われ、服を脱いだら次は「一緒に日本に行くぞ」と告げられます。

これが猪木少年の力道山との出会いであり、アントニオ猪木誕生の秘話です。

私は改めてこの本を読んでつくづく思うのは、人生で起きることは必然で、どんな経験も決して無駄なものはないということです。

自分が選んだ道は全ては繋がっており、努力すればするほど報われる可能性が高くなるものだということを教えてもらっているような気がします。

学校の先生に砲丸投げを教えてもらわなければアントニオ猪木は誕生しなかったわけで、人生何が転機になるのか分からないのです。

皆さんは挑戦したいことがありますか?

自分がやりたい道も進めば将来上手く行く保証などありません。

だけどやってみないとわかりません。

このブログで何度か紹介しましたが、私がいつも勇気を貰っているアントニオ猪木のこの詩を最後に紹介します。

   「道」
この道を行けばどうなるものか
危ぶむなかれ
危ぶめば道は無し
踏み出せばその一足が道となり
その一足が道となる
迷わず行けよ
行けばわかるさ
     アントニオ猪木

では、また。☆彡

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sawaki