皆さんこんにちわ。

富山市山室の学習塾「茗溪進学会」塾長の澤木です。
読んでためになり、子供たちが幸せになるヒント情報を発信します。
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石垣崩壊と葵の印籠
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今回の地震では熊本城も大きな被害を受けました。

400年も経つ石垣が無残な姿になっています。

武者返しで有名な石垣は加藤清正が築城したときのものとのことですが、清正の前の城主は我らが「佐々成政」です。

この佐々成政という武将、イマイチ知名度は低いですが、史実を紐解くと大した人物だったということがわかります。

 

成政は信長の命を受け、柴田勝家の与力として越中で上杉防御の重責を負います。

信長が一番恐れていた上杉との最前線に成政を置いたことでも信頼の厚さを知ることができます。

ちなみに前田利家は加賀にいますが、本能寺の変の後も動くことなく、上司である勝家が攻められている賤ヶ岳の戦いにも参戦せず、ひたすら様子見を決め込み、結局最後に勝った秀吉にすり寄ってわが身の安泰を図ったのであります。

私はこんなタイプの人間は好きにはなれませんが、世間では何故かこういうタイプが出世して甘い汁を吸うんですよね。

世に言う「世渡り上手」ってやつです 😥 。

日本人は真田幸村とか上杉謙信など一本筋の通った「義の人」が好きですが、成政も負けず劣らす死ぬまで筋の通った義に生きた人でした。

利家に裏切られた成政は家康に援軍を求め冬の立山を超えて行きます。

世に言う「さらさら越え」です。

成政の家康通じは上杉も了解済でしたし、家康は成政と組み天下を取りに行ったとしても不思議はないのです。

でも家康が家康らしいのはこんな好機でも動かなかったことです。

おそらく秀吉の行く末が長くないことを既に見抜いていたのかもしれません。

気が熟すのを待つというのは大事なことなんですね。

 

目論見が外れた成政は太閤山に陣を構えた秀吉の10万の兵に富山城を包囲されて降伏します。

普通ならここで切腹するのがお決まりコースですがそうはならない。

秀吉が説得役に立てたのが信長の次男信雄です。

本能寺の変で信長の長男信忠は戦死していたので信雄が織田家の家督を継いでいたのです。

こういうのを文字通りの「切り札」って言うのでしょうね。

富山のお城の中で二人はどんな話をしたのでしょうか。

織田家再興を誓いあったのでしょうか。

こんなシーンは大河ドラマなどにはまず描かれないでしょうが、私はこんな隠れた歴史の一ページに「ロマン」を感じます。

富山城は熊本城に比べようもない小さなお城ですが、こんなシーンを想像しながら見るとまた新鮮に見えてくるものです。

 

成政は2年後に肥後熊本の大名として復帰し、九州平定に尽力します。

時代は流れ、家康の天下になってからも佐々成政の遺臣たちが徳川の世を支え続けました。

水戸黄門の助さんのモデルになった佐々助三郎もその一人です。

「控えおろー。この紋どころが目に入らぬかー!」 😈 

知ってました?

胸のすくこの名セリフには忠節に生きた武将。われらが越中守佐々成政の精神が宿っていたのです。

では、また。☆彡

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